平野集落概要

世帯数 142世帯 人口 266人 (令和1年10月末日)

・ヤクスギランドの東側、春牧前岳など前岳尾根の南東面にあるモイヨ岳614mなどの裾が平野地区である。
・北東はタケメゴ川(竹女護川)が春牧地区と、南西はナカバシ川(中瀬川)が高平地区との境をなしている。
・崖をなす海岸と国有林である山の間が平野地区で、海岸線の長さが3kmあまり、山裾までの幅が1.2~1.5kmとなっている。
・屋久島東側の他地区と同様に、段丘海岸上の堆積岩の緩斜面が農地や人里になっている。
・温暖な気候だが、冬季の季節風の影響を受けて屋久島東南部としては低温になる。
・縄文期の石器が出土しており、大規模定住地であった横峯遺跡(春牧地区)に隣接していることからも海に近く、中小河川に恵まれて数千年前から暮らしの場であったと思われる。
・明暦時代の屋久島大絵図では安房村だが、その後黒石野村と呼ばれ、明治初期に再び安房村に復帰している。
・士族殖産の流れに沿って1886(明治19)年知覧の有力者らが現平野地区に91hの薩摩製糖組安房開墾場を開き、その後折田開墾と呼ばれて最盛期 には300hに達したという。
・さらに開墾参入者が増加し、原野山林を拓いて米、サツマイモ、サトウキビ、お茶などが栽培された。
・大正時代からタングステン採掘が始まり、仁田鉱山として第二次大戦時には日本第2の規模で300人余が働いていたが戦後一時休山、1958(昭和33)年は閉山となった。
・農地改革を経て1949(昭和24)年までに30戸余が入植し、既存農家は増反配分を受けた。
・1948(昭和23)年に安房から分離独立して平野区となった。
・安房開拓農協が成立し、1952(昭和27)年には製糖工場稼働など農業が活性化した時期もあったが、その後は1958(昭和33)年三岳酒造が創業するものの人口流失が顕著になった。
・明治時代には開墾に伴って100人程が住んでいた程度、1945(昭和20)年には仁田鉱山関係者だけで 8 0 7 人(配給者記録)も居住していたとされ る。
・平野地区としての人口は開拓や農業の活性化を反映して1955(昭和30)年 817人だが、1990(平成2)年には257人まで減少している。
・その後は勤め人が増えたことや都市からの転入者もあって人口は横ばい状態にある。