永久保集落概要

世帯数 82世帯 142人 (令和1年11月末日)

・島の東側、北は落ノ川から、南は平地川までが永久保集落。
・昭和26年に船行集落より分村し、永久保集落となる。
・村名は開拓農業協同組合が設立された時は「ナガクボ」と呼ばれていた。
・船行集落から分村する時に総会で「永久保」の漢字があてられた。
・昭和52年には積雪30センチとなり、交通が一時ストップし、郵便配達員は一軒ずつ歩いて配達した。
・戦後の入植以前はほとんどが国有地で、広範な原生林におおわれていた。
・田代川の上流・下流域一帯で、縄文・弥生式土器が出土しているが、江戸期まで人が住んでいた記録はない。
・大正時代に複数名が入植し、サトウキビなどを栽培していたが、昭和初期から終戦に至るまでは人家のない地域となっていた。
・戦後、満州・台湾・朝鮮など、海外からの引き揚げ者、国内では川辺郡や大島郡、復員してきた人などによって築き上げられた集落。
・入植者たちが、水道や道路を整備し、集落を作っていった。
・戦後に開拓された集落ということもあり、伝統行事は少ない。
・永久保の児童たちは船行の「竜天小学校」に通っていた。
・田代海岸一帯は昭和48年に天然記念物として、町文化財に指定された。
・田代海岸は平成14年に国立公園・第3種特別地域に指定さ れている。
・昭和21年より入植が始まり、昭和26年には85世帯30 0人ほどの村になり、昭和35年には新規入植者などにより、 93世帯435人。この頃が最も人口の多い時期だった。
・令和2年現在、屋久島島内で2番目に人口の少ない集落。
・開拓集落ということもあり、家は密集しておらず、集落内に点在する。

【資料】
屋久町郷土誌第三巻村落誌中
区長他聞取り